やります。一人ひとりを大切にする京都市政実現!

赤阪 仁の物語


赤阪仁物語

赤阪仁
私が日本共産党に入党したのは、高知大学の1回生の秋のことでした。 18歳で入党しました。私に入党を決意させたのは、何よりも、自分たちの人生を生きがいのあるものに、そして、見通しのある人生をおくりたいという強い思いがあったのです。大学に入学して、クラブ訪問しました。その時に、先輩から言われました。「正義感が強いのは言いが、経済の仕組みもわからずに世の中は変えられないよ。まず、自分の生活の足元の経済から勉強しなさい。資本論も読まずに知ったかぶりしたらいけんよ。」と広島出身の先輩が言いました。自分も、いつも気分だけでとりくむ活動から、科学的な見通しが持てる、生きがいを求めていたのです。  日本共産党の綱領を学んで、なぜ、日本はアメリカいいなりなのか、なぜ、大企業ばかりがつよく、中小企業、自営業が弱い立場になっているのかがわかり、どう解決したらいいのかもみとおせるようになりました。特に、戦前の命をかけて侵略戦争に反対した唯一の党、日本共産党の反戦平和のたたかいは、感動的でした。いま、イラク戦争に直面した、世界と、日本の激動的な情勢のとき、いつも迷わず、日本共産党の値打ちが語れることのほこりを感じています。 みなさん、世界の歴史の中でも、日本共産党が、共に、幸せ産み出す党としてのねうちがもっと光るときが来ているように感じます。外交でも、国内政治でも、経済でも、財政でも、党の値打ちが光っています。働きがいのある情勢、今度は市会議席をめざし、全力でがんばります。みなさんのいっそうのご支援よろしくお願いします。

「当選の決意」

赤阪仁
 ご支持いただいたみなさん。また、陰ながらご支援いただいた数多くのみなさん、本当にありがとうございました。 今度の選挙は、ほんとうに厳しい選挙でした。たたかえばたたかうほど、アメリカのイラク戦争を応援する政治、国民の命と生活破壊する自民、公明中心の小泉政権の悪政に対する怒りがますばかりでした。戦争反対、平和を守れ! 同時に、今の京都市政の国言いなりのオール与党の、市民をいじめる冷酷非情な姿が見えてきました。さらに、伏見区での京都市政のおくれた行政サービスのひどさが浮かび上がってきたのでした。「同じ、京都市民なのに、なぜ、私たち伏見区民は、こんな状態におかれるのか?!」伏見区民のこの三重苦への怒りが、私を奮い立たせました。  みなさんのまじめにはたらき、生きようとする姿に、感動し、そして生きる意欲といのち奪う悪政とオール与党の京都市政の市民いじめ、断じて許せない。この怒りを原点に、引き続き、みなさんにお約束しました、3つの公約実現めざし、ねばり強く、力強く、共に行動します。私へのご支持、ご支援いただいたみなさん、そして何よりも、時には厳しいご批判いただいたみなさんのおかげで、この議席を得ることができました。「謙虚さは人を成長させ、傲慢さは人を堕落させる」と、私自身、自らを律し、がんばります。  いつも反対者の声を尊重し、真実と科学的な見方を大切にし、対話を重視し、住民合意の京都市政、住民が主人公の政治めざしがんばります。ひきつづく、みなさんのご指導、ご鞭撻を心からお願いしまして、お礼と決意にかえます。  本当にありがとうございました。  

 日本共産党伏見区教育、福祉対策委員長 赤阪 仁

「母の愛は海よりも深く、山よりも高し」

 母が1月17日5時45分、亡くなりました。享年91才でした。  朝早く(4時半頃)から、妹から「病院から電話があって、お母ちゃんが危ないって」との電話をもらって、すぐに大阪まで帰りました。  「兄ちゃんに電話してんのに、何で出てくれへんかった」とさんざん怒られ、電車に乗って病院に向かうところで、「もう、葬祭場で待っているから」との返事。妹曰く「すぐに病院からでんとアカンさかいに、妹が以前から積み立てていた葬祭場に連絡とったらここを紹介してくれたから、ここに来た。お通夜は今晩、葬式は明日で。」と手際の良い妹だ。  そこは、家族葬専門の建物、そこの遺体安置場所に、母は眠るように横たわっていた。  昨年末に、「医者から、年越せるかや」と言われたと聞いていたが、正月3日に病院であったときは「家の天袋に大事なものを入れてあるから取って帰りや」と言われたのにほったらかしていたのが悔やまれる。年末に妻と妹2人と息子の家族がみんなで母の誕生日会を病院でやって、おいしそうに手作りのケーキを食べて、みるみる元気になったと聞いていたのに。  「アホな子ほどかわいい」といっては、「朝はうんこを出してから、夜は8時にはよい子の寝る時間を守る」という、生活リズムをつくるように育ててくれた母。「この子は親の言うこと一つも聞かん子や。そやけど優しいのがええとこや」と口癖のようにいっていた母。今日あるのはお母さんのおかげです。「戦争は貧乏人も金持ちもない、やったらアカン」、「明日という日があればこそ」と希望を持って、人生を自ら切り開くことを身をもって教えてくれた母。しっかりと受け継いでがんばります。

産婆さんが来るまでにオギャー

 ひとし、は1953年(昭和28年)1月22日、大阪府貝塚市澤で生まれました。 家は酒類小売商、父(宇一郎)と母(美代子)つまり私のふたりの愛情をいっぱいうけて育ちました。  予定日より早い日、徹夜で朝まで仕事をしていたんですが、急に産気づいてきたので、近所の人に言って、お湯を沸かしてもらい、産婆さんを呼びに走ってもらいました。次男だったこともあるのか産婆さんが来るまでに生まれてしまい周囲はあわてました。お産の本を見ながら、私が自分でへその緒をはさみで切りました。それからでしょうね。ちょっとおっちょこちょいの人生が始まったのは。(母・続く)

はじめての配達

 小学校4年生の年末、父親が腎臓を悪くし即日入院。パンパンに顔がはれていました。それまで配達などしたことがなかったが、一家の一員としてお酒など商品の配達をまかされました。初めての配達の家の前で「こんにちは、まいどおおきに」ということができなくて、じっとたっていたら、家の中から出てきてくれて恥ずかしくてたまりませんでした。しかし、その後これではあかんと気を取り直して、決意してからはどこでも「こんにちは、毎度おおきに」とどこの家でも訪問できるようになりそれが今の生活の力になっています。大晦日の夜の11時ごろまで配達して、母親が子どもが4人いて助かった」と家族の団結を喜びました。私の家は、正月3日間しか休まない酒屋でした。いま酒屋はアメリカいいなりの規制緩和のために大変です。「青少年のアルコール対策上でも、対面商法の役割がある」と思うのですが。

13歳の兄の交通事故死で人生観変わる

 私には、13歳の兄がいます。えー、そんなうそいうて。本当にいるのです。つまり、兄が中学1年生私が小学校の5年生、年末の酒屋の忙しい時でした。近所の子と遊んでいる私たちに『ちょっとお歳暮の配達に行って』と親に頼まれ、私は「遊んでるからいやや」と逃げてしまいました。当時、両親が自慢にしていた兄の一(はじめ)に頼んだのです。兄は私の代わり配達に行き、わき見運転のダンプに轢かれ、即死でした。  錯乱状態の父母を見て親を泣かしてはあかんと思いました。「生きている仁がまだいる。それだけで救われる」と後日、私に母は言いました。「親より先に死ぬ子ほど親不孝ものはない」と言い聞かされました。自分に自信がない私が「生きているだけで値打ちがあるんやで」と聞かされ、自分の人生、「へこたれんぞ」とがんばって生きようと思いました。そして、私は兄の人生も引き継ぐ「2倍の人生」を走る運命にあると生きています。

「ベトナム戦争が平和と人命の尊さを教えてくれた」

赤阪仁
 私の政治的目覚めは、当時のベトナム戦争の中で行われている戦争の悲惨さを見ることによって、命の尊さ、平和の大切さを感じたことからでした。これは自分の生きかたを決めた政治信条、「平和を守り、1人ひとりの命を大切にすること」になりました。 ベトナム兵や米兵の傷つき倒れた姿を見るにつけ、父親が生まれつきの股関節脱のために障害があり、そのことが、原因で徴兵を免れたおかげで、いまの自分があることへの感謝と運命というものを感じていました。当時「北ベトナムはトンキン湾でアメリカの駆逐艦に攻撃をした。」という「米軍のウソ」から始まったベトナム戦争。北ベトナムへの米軍爆撃と日本政府の支援体制は、平和憲法を掲げた日本政府のとった態度として許せませんでした。戦火の中で泣き叫ぶ幼い子どもと婦女のすがたが目に焼き付き、どうしたら戦争をやめさせることができるのか、そして行動する仲間を求めました。アメリカのイラクへの戦争の危機が叫ばれているいま、唯一被爆国日本の国民として、平和のために、自分は人間として悔いなく、生きているか、という自問自答しながら、歴史の歯車を前進させる日々です。

「お宅は酒屋でよかったですね」

 この言葉は、私の母親が5年生の時の担任の成績懇談会で言われた言葉です。「大学なんて無理ですよ、後を継ぐ酒屋があって良かったですよ」と言われたと、帰ってきた母親が開口一番私に嘆きました。「おまえみたいに勉強せんから先生にこんなこといわれるんや。魚屋の子を見てみい」とフライパンでたたかれました。子ども心に「なんてこという先生や、今に見てみい」と「生来の反骨心」がふくらみました。まじめに勉強せず、隣りの席の勉強できる子の真似をやれば、自分も勉強できるようになると思いました。  当時は、算数が苦手でした。家に帰ったら子どものガキ大将も学校では、シュンタロウ。しかし、中学校3年の時、数学の先生が就職予定で騒いでいる子に『これぐらい勉強しとけ』と授業中の合間に、その子らだけに別の課題を与えて教えている姿を見て、「これが先生と言うものやなあ」と感動しました。それが、教師と言う職業にあこがれる第一歩ではなかったかと思います。目標が出来てからは、こんな私も勉強することの面白さがわかりだしたと思います